これが俺の創業話。ちょっと特殊?グループの原点その2

こちらの続きです。

2011年。わたくしは28歳でしたか。

 

 

 

 創業者から受け継いだみずほ台校舎を過去最高の生徒数180名にした。

 

 

 

そちらを、みずほ台校舎の長になるべくして生まれてきたような男に任せた。

 

 

 

よし、ここから俺の挑戦が始まる。と、隣駅の【鶴瀬】に塾の新規校舎を出しました。

 

 

 

これが、俺の事実上の開業なのかもしれない。

 

 

 

 

当時、ほとんどの人からは反対をされました。

 

 

 

みずほ台だけで順調なんだから、競争が激しくて失敗確率が高い鶴瀬に塾を出すなんてやめておきなよ。と。

 

 

 

しかし、うちの先生たちは、みんな応援してくれたのが嬉しかった。

 

 

 

社長なのに改めて素敵な会社だなと思った。

 

 

 

初めて銀行に行き、融資のお願いをして、工事業者とか看板業者とやりとりをして、不動産契約も。

 

 

何もかも初めてだった。

 

 

 

 

夢が膨らみ、希望に満ちていた、、、と言いたいところだが、

 

 

 

契約が進んで、大金が動き始めたときに、すべて恐怖に変わった。

 

 

工事の業者が木枠を打ち込んでいるのを見ていて、もう戻れない。と、本当に足が震えたのを覚えている。

 

 

 

失敗したらどうしよう。

 

 

 

この広いスペースに生徒が集まってくれるのだろうか。

 

 

 

不安で押しつぶされないように、がむしゃらに働くことで不安を吹き飛ばすしかなかった。

 

 

 

 

みずほ台校舎でまだ授業を持っていた。

 

同時並行で開校準備をするのは大変だった。

 

夜中の2時、ペンキを自分で塗った。

 

お金がなかったから、業者さんに頼めなかった。

 

 

先生たちも疲れているはずなのに、笑顔で手伝いに来てくれた。

 

 

 

ペンキを塗り、夜が明け、朝、片付けをしていたら、卒業生が前を通りかかった。

 

 

 

「先生!エイメイ、鶴瀬にもできるの??すごい!」と言って、片付け、掃除を手伝ってくれた。

 

 

「応援してるから!」

 

 

その言葉がどんなに励みになったか。

 

 

 

鶴瀬校は、嬉しいことにスタート時には50名以上の生徒が集まり、好調なスタートではあったが、嬉しい悲鳴で、生徒50人分の先生が足りない状態だった。

 

 

 

生徒数が多いのに、クラスを増やすこともできずに生徒たちには迷惑をかけたのかもしれない。

 

 

もし悪い評判が拡がれば取り返しの付かないことになる。

 

 

生徒が集まらないで苦しむわけではなく、真逆の試練を与えられたわけだ。

 

 

やるっきゃないんだ。

 

睡眠時間もろくにとれないくらい忙しかったが、俺は燃えた。

 

 

すると、その一週間後の3月11日。

 

 

あの大震災が起きた。

 

 

 

 

50人が全員無料体験という不安定な時期だ。

 

 

そんなときに、完璧な状態で勝負ができないのは苦しかった。

 

 

 

でも、いつでもそうだ。

 

 

いつでも完璧な状態での勝負なんてありえない。

 

 

 

今ある力で、目の前の壁を全力で突破するしかないんだ。と覚悟を決めた。

 

 

 

鶴瀬校は、たった1年で生徒数100名を超え、卒業生を数百人送り出し、5年たったときには在籍250名を超えた。

 

 

成功の秘訣なんて大それたことは言わないけど、とにかく、目の前の事を一つひとつ一生懸命やってきただけ。

 

 

 

これは仲間たちの協力があってこそだ。

 

あー、今や仲間の先生たち100人に増えて、会社の規模も5倍以上になったなぁ。

 

感慨深い。

 

 

 

今や11校舎。

 

 

 

そして挑戦は今後も続く。

 

 

 

我が社は健全な発展をしていく。

 

 

 

もちろん。目の前の一つひとつのことを一生懸命やっていくだけだ。

 

この記事を書いた人

HIRO 川上ヒロ先生